そもそも情動が走り、本来の煌めきに手が届いている、触れている感触の持続。実感のある肉感的な仕草ばかりで、創造というものは成立しない。興奮状態にある創造者というのは、兎角エセである。我々(VE)の行っていることは、むしろそうした放下(ゲラセンヘイト/ハイデガー)・後始末の作業のボリュームが非常に大きい。
無論、それこそがこれまでを切断し、革命する「正当」な手法と睨んでいるからだが、簡単ではない。(これまでは、原発事故と同じで徹底した配慮という倫理が足りない)
そういった謂わば悪しき時間帯を個人的に迎えながら、果てしないような整理整頓をしている時、その流れの都合で再度個々の制作者の魂に触れることになった今回のDVD制作は、無理を承知でやって良かったとある種唐突な予期せぬ気持ちが生まれていた。
ジョークというのは、空間や人波へ律動を与えるような大衆的な薬のようなもので、ユーモアとは全く違う。ユーモアは固有な、人格的なものと考えるほうがよろしい。ジョークが上手いヤツは、往々にしてずる賢い。卑怯者に成り下がる場合もある。率直に自分を見つめるしか生きる術はないと知っているのが本来の作り手である。
徹底してコンテンツ細部を見直さざるを得ない状況で、VEの参加クリエイターは、ジョークの無いユニットだということを再認識したのだった。酒も飲むし、やんちゃもするが、環境全体に効く薬を考案しようとしているドクター中松とは違うということだ。真摯で真面目ということではない。稚拙に煌めきに手を伸ばしている。この再確認は、個人的にはかなり感動する経験となり、泣けてきた。(時間のかかるDVDの焼き込みの間ワインに手が伸びてしまったことも大きい)
「詩」という表現が、もしかすると20世紀の清算と21世紀前半という人間の立ち位置を明快にする唯一の手法なのではないかと、日々様々な詩編を探りつつ、今回もテキストを加えるということもあって思いあぐねていたところ、数日前に、なかなか手に入らなかった2001年発行の「立ちどまって」/李禹煥著が大阪から届き、捲る度に、作家の魂というより彼のカラダから離れた中空に浮く「理念」が、彼の美術作品と全く同じテンションで、頁にモノが言葉に成り代わって併置されていることを知り、特異な作家ではあるけれども、「私」という一人の身の中に、「あなた」が在り、「群衆」があり、「不安」があり、「飛躍」があると、得心というより、20代の頃受け取ったものと同質な衝撃に、「はっ」とした。
同じ意味で、写真作品や、映画作品や、映像作品の、DVDというタイムカプセルのような、あるいは墓石のような、夫々の屈託ない身振りが結晶のように正確にデジタル化されていることに、そうした手法を手にした世代であることに、今更に震えたのだった。そんな感情の残滓があり、昼間手作りの杏仁豆腐を持ってきてくれた次女と一緒に、tsurutaの写真作品フレームの調達に赴いた先で、随分悩んだが、安い体裁を捨て、納得のいくモノを選んでいた。妥協はせんよ。だから私たちのすることは、ユーモアが鏤められていても、ジョークではないということだ。だから祭り囃子が聞きたいというような娯楽好きの人間には永遠に届かないが、それも仕方ない。
gentaも端末がやばそうだが、こちらもデータの移動にノートをと娘に頼んだら、壊れていると一言。持ってこさせると、HDはカリカリ音がするが、モニターは真っ黒のまま。例のロジックボードの問題か?Firewireで繋げて、HDを調べなくてはいけない。iBookは、アップルでの修理しかできない上、修理費が固定で4~5万ほどだったか。